イベントレポートある日の銀座十字屋
ホール主催イベント

無声映画からトーキーまで 銀幕の楽士たち

 映画が時折、総合芸術と称される所以は、けっして個人技だけが光るものではなく、全てが共同作業の賜物で評価されるからだ。どんな名優でも照明が巧くなければ光らない。どんな名監督でもよい脚本がなければ、手腕は発揮できない。同様に音楽も、今や映画にはなくてはならない要素で、たとえば「スターウォーズ」の勇壮なテーマ曲が流れると心が躍るように、観る者の感情の起伏を司る重要な役割を担っている。

カラード1

 カラード・モノトーンは、日本が生んだ独自の文化である「活動写真」で音楽を担当する、いわゆる楽士の集団である。今回コンサートを開いて結成20周年を祝った。そこには筆舌に尽くし難い感動が待っていた。このグループは、何も映画音楽をコピー演奏しているのではない。活動写真=活弁は、ノンモンの映像(音声なし)に、語り手である弁士が、声色を使い分けて映画の進行に合せた台詞を喋る。そこに、生演奏の音楽も供される。今は声優が全盛時代であるけれども、未だトーキーがなかった頃は、この活動弁士こそがスターであった。無論、楽士たちもそれだけで生計が立てられたくらい、娯楽の王様であった。それが時代の潮流や技術革新と共に先細ってきたわけだが、どっこい今ではそのレアで古典的な制作手法が改めて見直され、再脚光を浴びる途にある。たぶん、歓心を呼んでいるのは、「手作り」の魅力にあるのだろう。映画で手作りって何だということだが、驚くべきことに、活弁における脚本やスコアは全て弁士・楽士の手になるオリジナルであるということである。それは、そうだろう。無声映画として世に出た作品だ。それを、再活性化させる手段として、新たに「語り」を入れ、「音楽」で感情を増幅させている。つまり、映画でありながらライブであり、既に評価を得た作品ながらも、名著改題の趣があるアート・フォームなのである。グリフィスが監督した無声映画の超大作「国民の創生」の再上映を契機に、リーダーの湯浅ジョウイチが書いたスコアを開闢した。そこから本格的な活動が始まり、気が付けば今日まで20年以上経っていたということなのだ。

カラード2

 文字通り、暗がりのなかで映像を邪魔しないように隅っこで演奏する彼らは、普段まずスポットを浴びることがない存在だ。しかも長い活動歴には、ゴーストライター騒動で一躍時の人となった新垣隆も長年メンバーでありながら、騒動の為に活動停止を余儀なくされるという紆余曲折もあった。しかし、今回は主役に躍り出て、積み重ねた技・書き溜めた信念のスコアを全てぶつけてきた彼らのステージでの表情は、自信と誇りに満ち、今までの積み重ねが実は偉大なことであったことに、戸惑いながらも歓声を満足げに受け止めていた。活弁のBGMとして何気なく聞いていたが、改めて傾聴すると、湯浅の曲は全てが素晴らしい。絵が見えてくる。心の揺らぎが音に反映されている。しかも、耳に残る。湯浅が用意するパレットに、個性的な音=色をつけてゆく鈴木のフルートと、タンゴの名手・古橋の節回し、ツボを心得た足立のお囃子。今回は、ゲストとして再び活動を共にした新垣の「ニュー・シネマ・パラダイス」における静謐なピアノ・ソロ。新加入した丹原の独特なピアノ・ボイシング。この日ばかりは、そのどれもが燦々と輝き、集大成に相応しい場を構成していた。最後、ステージでリーダーの湯浅が感極まって落涙した際に、もらい泣きした方も多かったようだ。

 カラード・モノトーンの大成功の舞台を観て、実直で良いものが報われることの喜びを共有できた一方で、いまの音楽界が抱える問題も浮き彫りになったように思える。才能を目前にしながらも、無名だからたいしたことないだろうと嘯く風潮。新しい試みに耳目を開かない慣れの怖さ。洋楽>邦楽と言った図式を鵜呑みにする浅薄さ。こうした悪癖は、彼らのような存在が浮上すればするほど露呈する。感動させてもらって、襟も正された・・・そんなコンサートだった。