イベントレポートある日の銀座十字屋
ホール主催イベント

フランスへの憧憬〜火花

 一夜にして、自分の立ち位置がガラリと変わってしまう・・・今後、桑原千弦はそんな体験をすることになるだろう。初リサイタルに臨んだこの日、万雷の拍手に包まれた桑原は、その演奏に感銘した百名に届く目撃者たちの祝福を一身に浴びていた。誰もが惜しみない賛辞を送っていた。そのあまりの反響には、当人が最も驚いているに違いない。

桑原1

 桑原は、銀座十字屋でハープの講師をしている。評判を聞けば、丁寧に教えてくれると人気が高い講師だそうだ。初リサイタルであることがタイトルに冠されているように、この日以前の彼女に、主だった公の動きはない。気の置けない良い先生ではあるが、存在自体はまさに無名だった。リサイタルも、十字屋ホールが3月に閉所することを聞いて、「それなら自分の記念になるから」と貸しホールでエントリーしてきたという。ところが意気を感じた銀座十字屋会長やスタッフに、「それなら主催コンサートにしましょう」と、本興行への昇格を告げられた。音楽への献身。それが周囲を動かした源泉だった。真面目で地道、実直な音楽への姿勢を、皆が見ていたのだ。かくして、瞬く間に初リサイタル開催が決まり本番を迎えたというわけだ。 

桑原2

 始まりは、エンジン全開ではなかった。緊張も見て取れた。しかし、曲が進むにつれ、徐々に本来を取り戻してゆく。フランスの作曲家の作品を中心に取り上げたことは正解だった。耳馴れしたハープの定番曲をリブートする、「単なる発表会」を望まれているわけではない。本気になった千弦先生を待っている。それを見透かしていたかのように、自らを鼓舞するようなグリンカ、グランジャーニー、ドビュッシー、トゥルニエなど、名前を聞いただけで難解な香りが漂うラインアップを準備してきたのは、単に憧れを形にしてみたかったのだろう。熟達の者が「今日はこんなのを弾きますが、何か?」という体とは真逆で、「前からこれらの曲が好きで、ぜひこういう場で弾いてみたかった」という真摯な想いが伝わる演奏だからこそ共感を呼んだ。そして、万感を籠めたありったけの「サルツェード:火花」へ。最も思い入れも強く、あまりコンサートでは聞かれない曲だ。本人は隠したつもりはないだろうが、これがまさに「隠し玉」だった。心が震えるような演奏。火花が飛び交う様子が音に乗り移ったように、ビジュアルで説得力のある生音。溜め込んだ実力が発露された瞬間だ。乾坤一擲とは、まさにこのこと。演奏が終わった瞬間、一瞬の永遠が静寂を呼び、直後に場内がどよめいた。この曲を境に桑原の今までとこれからがひとつになった。彼女は憧れる側から、憧れられる対象になったのだ。こだまする歓声は、きっと閉所となる十字屋ホールの佳き演奏に対する返礼である。