イベントレポートある日の銀座十字屋
ホール主催イベント

Wasaburo〜Merci Jujiya Hall〜

ワサブロー1

何事においても、規格外れが面白いというお話。ワサブローは、日本人の中でフランスでは最も有名な男のひとりである反面、シュバリエ文化勲章に輝きパリ中が熱狂する男なのに、日本の中ではその成功の割には未だその名をあまねく知られてはいない。フランスと日本を往来しシャンソンを誰よりも本場に近い感性と言葉で歌っているのに、日本のシャンソン界ではつんぼ桟敷に置かれているらしい(本人談)。だが、ともすれば陶酔型の歌い手がシャンソン界には多い中、ワサブローのメッセージは明瞭で共感を呼ぶものが多い。客席にもどんどん飛び込んでいくし、ステージでも暫し飛び上がったりもする。歌詞の超訳もへっちゃら。でも、自分の理念に背くことは一切やらないのも、この歌い手の特徴だ。この日の冒頭「セ・シ・ボン」は、誰もが知るシャンソンの名曲だが、意味合いからすれば「フィーリング・グッド」。だが、ワサブローは「何や知らんけど、ええなァ~」という京都人の感性で歌う。発音が幾らフランス人に近くなっても、それは真似の領域であり、日本人としてフランス人に近づこうとしているに過ぎない。だが、京都の人間がフランスに居て、「セ・シ・ボン」と捻りたくなる気分はよく分かる・・・という寄り方のほうが自然だし、日本人がシャンソンを歌うならばこうした真っ当なアプローチこそが正統であるべきなのに、日本ではむしろ異端に捉えられてしまう。予定調和では計れない規格外のシャンソンを聴かせるからだ。シャンソンの本質は、言葉である。それは必ずしも言語そのものを意味するのではなく、とりわけ日本人がシャンソンを歌ってメッセージを伝えるという事は、言霊を的確に伝えることだと思う。結局のところワサブローの場合、「買い物ブギ」を歌おうが「パリ野郎」を歌おうが、何を聴いても本物のシャンソンに聴こえるのは、その存在自体がシャンソンの精神に忠実であるからなのだろうし、普段聴き慣れている曲が違った衣を纏って現れるのは、ワサブローがシャンソンを歌っているというよりは、ワサブローが歌うことがシャンソンになっているからだ。

ワサブロー2

 シャンソンが、心模様の反映や人生の機微の歌であるならば、同じようなスピリットを持つブルースを例に採るとよく分かる。不世出の女性ジャズ歌手ビリィ・ホリデイの言葉に「誰にでもブルースはある(だが、ブルースのための人生を送るのは辛く、難しい)」といったニュアンスの言葉がある。金言だ。同じように言い換えると、シャンソンは誰にでも口ずさめる。だが、シャンソンの歌詞を地で往く生活をしていたら体が持たない。だから、いかにシャンソンの精神に、しなやかに柔軟に、そして誠実で向き合うことが最もシャンソンの真実に触れることを考えると、ワサブローほど近づいている歌手は数少ない。

 この日の伴奏者も、アルゼンチン・タンゴの王様ピアソラが太鼓判を押したアコーディオン奏者・桑山哲也と、シャンソンのみならずジャズからラテンまで、この人何でもできるに違いないと思わせる才人ピアニスト・中島徹だった。いずれも規格外。各自その道では、他者と比べて図抜けている。類は友を呼ぶ、のだろう。そうした3人が琢磨しながら造るステージだ。心に響かないはずがない。いま日本で最良にして、最高のシャンソンを聴かせるのは、このワサブローである。